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■美術

■論評が難しい理由

(1)社会的な骨:
正式な師事者や、作風の似た有名作家がおらず、学歴も非開示である。無所属であり、受賞歴も無い。そののため画家としての社会的な骨が無い。ぽつねんと私の隣に作品がある。そこから言葉を紡ぐには、論評者には多くのファンタジーが要る。むしろ作品自体にさらに力強さが必要である。

(2)作風がまちまち:
様々な作風がある。それらは下手をすると別人の作品かと勘違いされるほど、印象が異なっている。特徴でもあるが、不安定感も与えている。誰かが1つの作風に論評を加えても、別の作風によって裏切る可能性がある。何らかの共通項を見出して提示する必要がある。

(3)解説が無い:
展示作品に解説が無い。時に作題も無く、捉え処が無い。かつての鑑賞者の言質を引用すれば「何を言いたいのか(主張が)分からない。」。読者にハッキリと伝わる解説や作題を用意するのが望ましい。

■制作の経緯

 いつも、絵画に言葉を添えることに躊躇します。絵画の解釈の可能性は、鑑賞者に委ねられていて、作家によっていたずらに狭めてはいけないと思うからです。それに、言葉で表現してしまうと、絵画そのものの意義が縮んでしまうかもしれません。画家は絵画で表現し、著述家は言葉で表現するものです。ですから、この作品に言葉を添えることにも抵抗がありました。ただ、自分の考え方に拘り、折角の絵画作品が「分かりにくい」という理由で人目につかないのならば、それも不本意です。そこで、私という制作者自身も或る一人の解釈者に過ぎない、こういう風に考え方を割り切って、末筆ながら「ふうせん」の制作の経緯についてご説明差し上げようと思います。冗長ですがご容赦下さい。

ふうせんの実
赤いふうせんの写真 誰しも子供の頃、たくさんのふうせんにつかまって空を飛ぶ幻想を抱いたのではないでしょうか。このイメージは、それほど目新しいものでも、珍しいものではありません。一方で、私がそれを絵本という形で登場させるまでには、いろいろな経緯がありました。

 まず最初に、「ふうせん」には前編があります。「メッセージ」という名称で描いた一連のイラストで、赤いふうせんの写真(右記)が発端となり、1997年に最初に絵を発表しました。そのあらすじは次の通りです。

 「赤いふうせんを持っていた子供がうっかり手を離して、ふうせんは空へ飛んでいってしまう。それにたまたま気づいた人が、両手を一生懸命バタつかせる。彼はふわりと宙を舞い、空をめぐってふうせんを追いかける。そして一旦はふうせんをつかまえる。けれども、強く握りすぎてしまい、憐れふうせんは破裂してしまう。彼は落胆して墜落する。破裂したふうせんの破片は地面いっぱいに散らばる。
  ある日、その地面から青い芽が出る。芽は次第に大きくなって、木に成長する。その木から、赤い実がなる。その実はだんだん膨らんで、フワフワ浮かぶふうせんの実になる。彼はかつての赤いふうせんが復活したと思い大喜びする。しかし彼が気付かないうちに、ふうせんが空に飛び立ってしまう。彼は再びふうせんを追いかけることを決意して、永遠にふうせんを追いかけ続ける。」

 以降の続きは思いつかず、もやもやしたまま制作を凍結していました。私は機が熟していないのだと思い、再び機運が盛り上がることを待っていました。そんな折、2009年に私に子供ができました。赤ん坊だったその娘を抱いて、家に飾ってあった私の絵を一緒に見ていると、娘が「メッセージ」に描いてあった赤いふうせんに喜んでいました。赤ん坊には赤色が目立つらしく、ジーっとその赤を眺めたり、指差して「ふぅ」と言ったりしていました。それならと、私は子供のために久しぶりに「メッセージ」の制作を再開したのです。ただし、この時点では話の続きは思いついていませんでした。  今から思えば予定調和的ですが「メッセージ」に「ふうせんの実」が登場したことが、後編のイメージへと展開する大きな要素でした。しかし、それだけではきっと駄目でした。しばらくして、前編・後編を結びつける大きな出来事が起こるのです。

楽しい絵
ふうせんの木 後編では、いろいろな人達や動物がふうせんにつかまって飛んでいきます。主人公も飛びます。みんな笑顔で、空の旅を楽しんでいるようです。このふうせんは、前編に出ていた「ふうせんの実」です。いっぱいのふうせんの木から、いっぱいのふうせんの実が生って、みんなそれにつかまって飛んでいっているのです。底抜けに明るい、そんな形容が当てはまるような絵ばかりです。
 しかしその姿は、実は2011年の東日本大震災における津波の被害と重なっています。津波が東北地方太平洋沿岸へと押し寄せた時に、「もしもいっぱいの「ふうせんの実」があったら、みんなそれにつかまって、空へ飛んでいって逃げられたかもしれない。」と、ふと思いました。特に、小さな子供の犠牲も多かったので、せめて子供だけでも助かってほしかった。当時の私の娘は1歳前後でしたから、震災で子供を亡くした親の気持ちが身につまされていたのですが、そのために抱いたこんな他愛もない幻想が「ふうせん」の中心イメージとなったのです。

犬とバイク この私の心の底の思いは、震災当時、日本中がショックで暗澹として沈み込んでいたことと共鳴しています。そしてむしろ、その反動でこうやって楽しい絵が紡ぎ出された気がします。悲しければ悲しいほど絵は明るくなって、1~2歳前後の子供が喜ぶもの、知っているもの、知るべきものなどを、「ふうせんで空を飛ぶ」という主導動機に結びつけて堰を切ったように次々と描きました。人物・乗り物・動物、そして小さな子供達がどんどん飛んで行きました。皆、ふうせんで空を飛びたいという幼いころの願望を、たくさんのふうせんの実によって満たしているのです。絵の上では津波にのまれたことは関係なく、悲壮感はありません。直接的な因果関係を示すことは何も表現されてはいないのです。しかしながら、前編・後編をつなげた大きな出来事とは、このイメージの元となった2011年の東日本大震災だったのです。  

最後のシーン
製作途中のラストシーン 制作の途中、ある人物のイメージが、ふと白布に出ました。それまで描いた、誰かが飛んでいる姿ではなくて、子供を抱いて立っている親の姿のようでした。その場ではどうするか思い付かなかったので、しばらく寝かして、他の絵が一段落した頃に描こうと思いました。そして、着手すると、不安定感や遠近感の出し方が面白い絵になりそうでした。どんなシーンにすべきかも決まっておらず、迷いながら描いていました。画面のインパクトを出すために、ふうせんを赤に統一して、微細かつ大胆に描き込んでいました。黙々とふうせんを描き込んでいて作業が深夜におよんだその時、私は声を出しました。

  「あっ!」
  「こりゃあ死んだ人達だ…。ぁー。」

最後のシーン_初版   そうです。そこに描いた沢山の赤いふうせんは大震災で犠牲になった人達の魂で、それを生き残った主人公と父親(当時1歳半だった娘と私の似姿)が見送るシーンだとこの絵の隠れた意味に気付きました。瞬間、さめざめ泣きました。子供が攫われないようにしっかり抱き留め、笑顔のない父親像は、ゲーテの詩でシューベルトの歌曲になっている「魔王」の一場面を想起させます。あの地震・津波により、何の落ち度もない多くの人命が呆気なく奪われた事実を目の当たりにし、続発した原発事故の影響が首都圏にまで広がって来て、余震は一向に止む気配がなく、次の巨大地震がいつ来てもおかしくないと学者が警鐘を鳴らす中で、自分や家族も死と隣り合わせであることに気づいた、その時の似姿です。これまで描いた様々なモチーフも、要するに主人公が見送っている犠牲者の魂の姿に読み替えることができました。そして、主人公は地上に降りている。つまり生き残った子供の象徴だったのです。そして、このシーンが最終的にフィナーレの絵となりました。

静かな慟哭
 私は、人々が津波から逃げ惑う姿や、高台から津波を見て絶叫する姿、無力感に襲われて茫然自失となっている姿、励まし合い、助け合う姿を、映像や文章で何度も見聞きしました。

バス「すごいぞー!」 「早く上さあがれ」 「堤防越えた」 「津波きてます!」 「家が流れてる」 「尋常じゃねえ」 「全滅だぞ」 「はやく!はやく!」 「にげて!」 「えー?ゆめじゃないの?!」 「こんなんなっちゃうの?」 「信じられない」 「ここで大丈夫か!?」 「今2階ですが、ここもどうなるかわかりません!」 「あーだめだ」 「止めてくれー」 「なにが防波堤だ。何が防潮堤だ。」 「おじいちゃんが病院に!」 「ともだち心配だ。」 「がんばれー!手離すなー!」 「あっあー!!」 「地獄だ」 「命があっただけでも」 「明治の津波以上だ」 「なんもかもお仕舞いだ」

 悲鳴と共に上記のような言葉を聴きました。他にも、映像には映っていないのですが、最初ははしゃいで笑っていた若者が、あまりの度の超えた事態に、次第に声が出なくなってしまう様子もありました。絶句し、声が出せなかった人も沢山いたのだと思います。モチーフが空を飛んでいる絵は、実はそういった映像や文章を見返しながら描きました。こんなにも明るい絵が、実は苦しみ、悲しみから産まれていたのです。

距離
 震災当日、大津波警報が発令されたことを知った時、私は三陸海岸の人たちは防災意識が高いから逃げてくれるだろう、大丈夫だ、と思いました。その時、私は東京に住んでいて、あまりに遠くて自分は何もできない、無力を感じていました。だから、彼らなら大丈夫だと自分に言い聞かせるしかありませんでした。しかし実際は、私の予想を超えていたどころか、誰も予想できなかったような巨大津波が太平洋岸に押し寄せていました。私が最初に映像で、逃げ遅れた 人を目にした時、先ほどの楽観視はあっさり崩れました。「いったい何万人死ぬんだ。」私は慄(おのの)きました。そして、その後の話ですが、助かった人たちも、たとえ近くにいたとしても、同胞が流されていくのをただ見送るしかない、無力感を覚えていたことを知りました。津波の力はわれわれの想像を遥かに超えて、あまりにも絶大でした。津波に呑まれた人が、どこかの知らない人でも、同じ日本人です。私も、何とか助けてあげたかった。でも無理でした。そして、救うことは誰にも出来なかった。目の前であの津波を見て生き残った被災者の方のショックは計り知れません。一方で、時間が経つにつれて語られた体験談を読むうちに、私が感じた無力感は、生き残った被災者の人たちとも少なくとも一部は共有していたのだと分かりました。


 主人公がふうせんで飛んで行った後にどうするか悩みました。一連の絵には、鎮魂の意味もありますが、私も含めて、生き残った人たちへ気持ちを向けなければなりません。最初、いっぱいのふうせんで虹をつくって、上った人達が降りてくる様なことにしようと思いました。しかしその辺りは適当でいいと思いました。つまり一旦上がったから、降りてこなければならないといった物理法則に依存する必要はない、裏の筋書きに沿えばいいのだと。つまり、津波にのまれた主人公、彼もふうせんにつかまって一旦は天上へ上っていくのですが、奇跡的に助かるという裏の筋書きです。亡くなった方達のたましい=ふうせんによって主人公が助かるというよりは、助かったのは偶然に過ぎないとしても、九死に一生を得たことで、その後に強く生きようとする意志は、やはり九死があってこそ、犠牲者の人たちがいてこそ生まれる、そういうことです。
 主人公の夢によって物語がつながれるので、途中までいっしょにふうせんで飛んでいたゾウに運び役をお願いしました。主人公が気を失っている間はずっとふうせんの夢を見ていたのです。そして空にできたふうせんの草原を、ゾウの背中に乗って散歩します。次第に日が暮れだして、暖かかった太陽の光も翳ってくるのですが、それでも主人公はなぜか寒さを感じずに、暖かさを感じ続けていることを不思議に思って、目を覚まします。するとその暖かさは、助にきた父親の抱擁の温かさだったのです。そして主人公は、朧げな夢うつつの中で、無数の、しかし一人一人の死者のたましいが、天上へ向かう美しい姿を見送るのです。ラストシーン
おわり
図版解説
ラストシーンふうせんの最後のシーン(第二版)。もしこの人物が我々を含む遺族の似姿だとすれば、見送られる魂が戦慄するほどに美しいのは、死者から「お前たちは生き残った。」と宣告を受け、かつ遺族が「我々は生き残った。」と宣言するシーンであるからではないかと、後に解釈します。



赤いふうせんの写真 ビルのエントランスホールの天井に打ち捨てられていた赤いふうせん。1995年永瀬撮影。









ふうせんの木 
前半で飛び散ったふうせんの破片からふうせんの木が育って、ふうせん実が生り、後半の主人公の「ちっくん」は飛び立つ。










製作途中のラストシーン 
最後のシーンは偶然思いついた図柄から導かれた。ストーリーはそこから遡って組み立てられていった。図は制作途中の第二版。









最後のシーン_初版 最後のシーン第一版。















犬とバイク 被災地から悲報が届くたびに、絵の数は増えていった。偶然映った津波から逃げ惑う犬の映像も目に焼きついた。






永瀬 宗彦


■ふうせん作者コメント

願わくばこの絵が1000年後まで生き残り、この土地に住む人の目に止まって感動を呼び起こすと共に、ここに描かれた無数の球体、即ちふうせんが、実は1000年に一度と言われる壮絶な地震と津波に呑み込まれ、一瞬にして命を落とした人の魂を象徴しており、中央の親子は生き残って魂を見送る人であることを知って、再度このような地震と津波が起こり得ることの、貴殿への警鐘たらんことを欲する。

■作風の多様性について解説

永瀬宗彦の美術作品の技法は主に油彩・水彩・パステル・ペン・木炭・鉛筆等で、重層的な描き方をしているにせよ、専ら平面作品です。

そして作風は珍しいほど様々です。鑑賞される方は往往にして、この作風の違いに困惑するようです。今回はこのことに触れてみようと思います。

あたかも多重人格である様な私の作風の違いですが、単に思うがままに描いた結果です。その時々に描こうとしたモチーフの特性に応じて、最適な技法や表現方法を選んで、モチーフの特徴を捉えて、際立たせ、モチーフの個性を引き立たせるように描けば、同じ作家でもまったく異なる印象の絵画が出来上がるのは自明です。

それと、描画技術や絵具特性に関する知識は、汎用性の高いものです。つまり、一つのものが描けたら別のものも描けることが多いのです。ですから、モチーフをどこから選ぶかによって、どうとでも描き分けすることができるはずなのです。もちろん、底流には私という通奏低音が流れているはずなので、一見別人が描いたようでも、よくよく眺めてみると、それぞれに類似性を指摘できるかもしれません。しかし私は、自分の絵を自己表現とはとらえていません。類似性が見えてしまうことは、作者の影が画面に映りこんでいるという意味で、鑑賞を妨げる要素であり、私にとってよくないことです。私はむしろ滅私をしているのです。

そして、私は作品一点一点が、それぞれ独り立ちできるように描いています。独り立ちとは、その絵だけで満足できる、他の要素は必要ない、といった状態です。完結性とでも言えるかもしれません。有名な作家でなくとも、絵にこの独立性があれば、人は絵そのものに惹きつけられるでしょう。それが目的です。

もしそれが成功しているとすれば、一人の鑑賞者が一つの作品にしっかりと向き合った時、その作品に満足するのですから、他の作品は目に入らないことになります。同時に、その際、並べて見た時に感じていた作風の多様性は、雲散霧消しているのではないでしょうか。私は評論家でも美術史家ではありません。私にとっては、絵画作品を横に並べて見比べることは、あまり意味を持たない、興味のないことなのです。

さて、ではなぜ、独り立ちさせるのでしょうか?

絵画は持ち主の生涯に寄り添うものだと思います。その期間は、何十年と長くなります。持ち主が違う人に変われば、さらに何十年と寄り添うことになります。何人も持ち主が変われば、何百年という期間、絵は生きる続けることになります。

その間、世の中は転変します。いっときの流行は呆気なく過ぎ去り、価値観は大きく変わります。それでもその絵が輝きを失わずに、持ち主から大事にされるためには、絵の中に一本芯が通っていなければなりません。揺るがない芯です。独り立ちできるとは、その芯を持っている、ということです。私は、自分の作品に恒久的に生きてもらうために、そういった芯を持たせ、周りから独り立ちさせようとしているのです。

描くべきモチーフを描くべき技法で描く、そしてそれぞれが独り立ちする。逆説的に言えば、総体としてパターン化されてしまうこと、そして歴史に埋没することを拒む。持ち主に対して、金銭的価値でもなく、歴史的価値でもなく、絵画としての輝きを放ってほしい。こういった考え方ですから、私自身は自分の作品が多様であることに違和感はありません。むしろ、どうして作風を統一させようとするのか、その動機はいったい何なのか、訝しく思うことすらあるのです。





■「あなたの美術作品の中には哲学が入っているのではないか?」

個展等をしていると、よく、次のように質問されます。

「あなたは哲学を学んだのだから、あなたが制作した美術作品の中には、哲学的な要素が入っているのではないか?」

私はたいてい、次のように回答します。

「意識的に入れたことはありません」


しかし、私がいくらそう言っても、やはりその方も、その様に質問するからには、私の作品に哲学をお感じになったり、お考えになったのだと思います。私が哲学を学んだとご存じない方でも、そのような指摘をすることがあります。ですから、私が知らず知らずのうちに、哲学的要素は、作品に含み込まれてしまっているかもしれません。

しかし実は、「意識的に入れたことはありません」という表現は正確ではありません。正しくは、「意識的に除去しています」という表現だと思います。その結果で、つまり除去したことで、絵画に哲学的な何かを感じていらっしゃるのかもしれません。

どういうことでしょうか?

哲学は汎用的な考え方です。我々が摂取する情報の中には、哲学的要素が混入しています。例えば、日本は戦前から重商主義が幅を利かせていますが、ここにはアメリカ的な功利主義、プラグマティズムが見え隠れします。プラグマティズムそのものは、私は勉強していませんし、あまり耳にしませんから、日本で浸透している考え方として探すのは難しいですが、同主義は、ドイツやフランスの実存主義と近接していて、それを取り入れております。

では実存主義から探してみましょう。ハイデガーの『存在と時間』が1933年の出版であります。その概念がドイツから直接、あるいはアメリカのプラグマティズム経由で日本に根付いていると考えることは自然だと思います。

むしろ、ハイデガーの考え方が、資本主義的な律動に根ざしていて、それを定式化しようと試みているかのようにも見えます。「企投」などという彼の言葉は、誤解を覚悟で言えばですが、経済原理を個人に適用する際の言葉、「自己投資」という言葉・行為に置き換えることが出来るかもしれません。逆照射的に見れば、ということです。

そういった思想の摂取を、われわれは日々の生活や仕事の中で行っているのではないか、あるいは、われわれの日々の生活や仕事や考え方を、哲学は逆照射して、定義しているのではないか、と、漠然と感じています。「われわれは哲学を常に摂取して、含んでいる。」のだと。

だからこそ、私は、美術作品から哲学を「除去しています」が正しいと思うのです。では、哲学を除去してなお、哲学的である理由はなんでしょうか?

ここでまた話が飛びます。

カント美学の要諦は何か?と質問されたら、私は最初に「無関心性」と回答するでしょう。No interest, Ohne Interesseです。これも誤解を恐れずに言えば、例えば絵を鑑賞する際に、その絵の値段が何か、将来いくらになるか等を考えていたら、美感は得られない、ということなのです。そういったことを度外視して、絵だけを見ない限り、感じることは「欲動」であって「美感」ではないということです。なお、interest,Interesseは投資的関心という意味があります。

カント美学がこのような要諦ですから、私は、絵画に哲学が混入してしまったら、まずいと思います。哲学は、関心性が生じるものです。つまり、哲学が混入すると美感が損なわれるということです。

このことは、アドルノがいみじくも「カント美学は、彼が第一義と考える彼の道徳哲学と接合することによって、歪んでしまっている(要旨)」(アドルノ『美の理論』)と指摘しています。炯眼です。道徳理論と美感的判断力が「結合子」によって結びついている点は、『判断力批判』の第一部の後半にて行われます。

ですから私は哲学を「除去」します。出来る限り徹底的に関心性を遠のけます。その結果、美感だけが残るように努めるのです。なぜかと言えば、単に私が画家で、絵画に美を求めているからだと思います。

そして、逆に、哲学を学んでいない人は、この「除去」をしていないのです。

後天的な自分自身の考え方はいいのです。意識して勉強していますから。そうではなくて、先ほど述べたような、知らず知らずのうちに自分自身の血肉になっているような思想は、ふつうは意識できないので、除去もできません。これは、残念ながら専門的な勉強をしない限り、できないと思います。すると、哲学的な関心性がそこに混入することになります。

それから逃れることは、基本的にできません。誰しも時代と共に生きています。私もそうです。私も、関心性を除去するために哲学を学ぶ、というそこまで本末転倒なことはしていません。

美感的な純粋性にまで到達している人はごく稀です。何かしら、時代の空気から感じ取ったような思想が読み取れることがほとんどです。

その思想そのものが流行思想だったり、あるいは興行的・商業的な動機から流布された、「かっこうのいい考え方」だったりする場合もあるでしょう。それが悪いという意味ではなく、そういうアプローチがあってもいいし、私のような混入物に神経質なアプローチがあってもいいと思うのです。私の作品は、硬質であるとか、純粋であるとかいう形容を頂くことがありますが、その部分だけに関しては上記のような説明で、その理由が説明できるような気がします。

そして、私自身は関心を呼ぶ思想に依拠しないように、なるべくしているのですから、自然な流れとして、美術史や美術のトレンド、あるいは一般的な流行から独立することになります。現代美術のカテゴリーがあるとすれば、私の作品は明らかに欄外です。

欄外であっても、美感を呼び起こすことが出来ている、無名の画家なのに、悪くない、鑑賞者はそう感じて、私に哲学があると言うのだと思います。哲学が無いことで、哲学があると感じるのは、なんとも不思議です。しかし、哲学も美感も、実はそういった、強い独立性を求めているものなのではないでしょうか。

■美術制作のスタンス

今回の絵本の制作は子供の反応を見ながら進めていたわけです。これがすごくハッキリした反応。絵本を手渡した時は大喜びで「やった!やった!」と言って飛び跳ねるわけです。恐らく普段は壁に吊ってあって手の届かない原画が、絵本になって手元でじっくり見ることができるようになったからだと思います。喜びが爆発するんですね。その割には絵本の扱いが雑なんですが。とにかく、絵を描いていて、こんなに反応があったことは初めてで、嬉しかったです。「あーもういいや、筆を置いても」って思えました。

大人の方は、それこそ神妙に一枚一枚をご覧になって、お考えになっているのか、苦虫を噛んだような唸り声を上げたりして。絵というと難しいものという感覚があるのかもしれません。有難い気もしますが、疲れてしまうのではないかと、心配で、残念です。同性の方だと特に、見栄やライバル心や警戒感から、イロイロお考えになっているのかも。たまに、「何とも言えない」といったような、きょとんとした表情をなさる方もいます。

ところが私自身は、絵を難しいものと捉えていません。知識を前提にしない絵を目指しています。これは、美術史を少し勉強すれば、宗教画がそうですが、絵がメタレベルの低いものであることは、誰でも知っているはずで。実践しようとしている人はいないかもしれませんが。つまり、例えば文盲の方でも楽しめる絵であることが、私のスタンスです。たまに外国人が来ると喜んで見てくれますから、成功している面はあるのだと思います。色彩・形態・テクスチャーが主な課題で、美術思想史については、とにかく無視しています。

そういうスタンスなので、日本人の方からは逆に違和感があって、警戒感が出てしまうのかもしれません。そもそも、作家に学歴を隠されると、何か不安を感じるような見方をしていては、私の個展は落ち着かないでしょう。ここは、頑なです。以前、アート・ポイントの岡田さんに言われて一度だけ学歴を出したことがありましたが、それ以降は一度も出していません。美大を出ていませんから、私のメリットになることは無いですし、学部時代は普通の大学の美術部の部長として積極的に他大学と交流をしたのですが、美術のレベルが偏差値とは違うことは目に見えていましたから、何の参考にもならないと。


■美術制作のスタンス

美術制作の目標は鑑賞者に感動してもらうこと。とりわけ作品発表の場では、作品そのものによって感動を呼び起こしたい。感動とは何か。鑑賞者の心中に連鎖的・爆発的事象を引き起こすこと。泣いてもらうこと。ただし絵はとても非力である。特に小さな絵ほどそうである。他の芸術よりも難しい。一筋縄ではいかない。個展という限られた空間・時間で実現するのは尚更である。

そして、鑑賞者から見ると、私は、自分が考えているよりもずっと回りくどいらしい。

とにかく、伝わらない。私の元来からのスタンス「なるべく知識と前提を必要としない美術表現」が災いしているかもしれない。

例えば、誰かの真似をしない、キャプションを省く、学歴を省く、解説を書かない、引用をしない、フラットな人間関係を望んで徒党を組まないetc...

絵を見てほしい、そういう思いがある。しかし悲しいかな、日本人は美術鑑賞に偏りがある。キャプションを先に目にやる。学歴が気になる。諸外国の美術館へ足を赴ければ、鑑賞者は作品そのものを最初に見る。キャプションは添え物に過ぎない。見ないこともある。しかし日本人は添え物に権威を感じて、文字表現の解読を喜びとしている。恨めしい。

■今後の美術作品の制作と発表について。

今後の美術作品の制作と発表について。

社会人になってから、いくつかの貸し画廊を訪ね、お金を払ってグループ展や二人展、個展をひらいてきました。ここ数年はずっと、個展という形で発表させて頂いておりました。

その間、一部の方からご評価頂きましたから、たいへん頼もしく、また励みになっていました。回を重ねるうちに、室料もいらないとおっしゃって頂けることもあり、とても有難く、自分は幸せ者だと思いました。

人間関係も当初の学生時代の友人から、美術にたずさわる方々との関係が主になっていきました。そういう方々にまじって、それこそ末席を汚しているようなくらいでしたが、プロの方に失礼のないように、卑屈になることなく、自信をもって臨んできたつもりです。

一方で、長く続けるうちに、いつになっても芽の出ない自分の才能と努力不足に落胆することが多くなってきました。

自分では自分の作品がいいと思っていても、必ずしも見て頂く方々が同じ意見とは限りません。自分の何が足りないのか、いろいろ考えました。

時間不足で作品の質にムラが出ているのではないか?
あまりに自由に描いていて作風が多すぎないか?観る方も困惑しているのではないか?
自分のスタイルにこだわるあまり、鑑賞者の意識とのズレを生んでいるのではないか?
作品に何かを求める姿勢に難があるのではないか、人間関係構築が最も重要なのではないか?
単に技術不足、知見不足、努力不足なのではないか?
もろもろの理由から、鑑賞者が求めている絵を提供できていないのではないか?

こういった悩みは、自主的な創作活動を始めた当初から、ずっと抱き続けているものです。解決もせず、答えも出ない悩みでした。

個展以外にもいくつか絵の仕事をもらいました。挿絵だったり、表紙原画だったりしました。しかし、結局、それ以上多くの仕事にはありつけませんでした。私のイメージする生業にはほど遠い仕事量でした。

2013年のカフェ"SEE MORE
GLASS"での展示は、以前からカフェに飾らしてもらいたいという願望を実現したものでした。他方、私家版の絵本の原画展示というスタイルにすることでターニングポイントと言える展示でした。つまり、作品発表がよりプライベートなものに収斂していく、そういったプロセスにおける一つの展示形態がこの展示でした。

誰かに見てもらうことは相変わらず重要と考えているのですが、それによって評価を得て、仕事を得るための展示ではなかったのです。むしろ、外へ飾ることをモチベーションにして、より多くの作品を生み出すことが目的でした。「ふうせん」の場合は、私の子供のために絵本を作ることというプライベートな目的が、パブリックな展示の行き着く最終目標でした。だから、広報もせず、誰も呼びませんでした。会場に鑑賞目的に来場したのは私の家族だけでした。

こういった発表形態に、私はさびしさも感じていますが、それ以上に、私の勝手な創作活動に他人を巻き込むこと、期待だけ抱かせて結果を出せないことに恐怖感を持ちました。虚栄心を満たしたいとは一向に思っていませんが、仰々しく個展を開くことで、結果としてそうなっているのではないか?そう感じました。だから、もう止めようと考えました。通りすがりの方がたまたま観て、「悪くない」といった程度の感想を言ってくれれば、私はそれで満足だと思いました。

こういった弱気な考え方はしかし、たびたび私の中に現れては、しばらくすると消えていってしまうものでした。それに代わって、強気な考え方が頭をもたげてきます。私は今回こそ、そういった強気を封印して、美術活動を私的な活動に抑えたいと思います。

美術界は、絵が少し上手いくらいで通用するようなものでなく、生き残るにはズバ抜けていなければならず、また、社会が求める美術作品は、必ずしも私が描きたい美術作品ではありませんでした。私から見てつまらないと感じる美術作品が、むしろ画壇や評論界、市場で評価されているようでした。

一方で私がそんな美術界を批判しても、何の説得力もなく、誰からも受け入れられないことも心得ています。売れないことに文句を言っても何も始まらない。自分が思うのとは逆に、単に自分がつまらない作家なのだということを、しっかりと心得なければなりません。悲しいかな、周りから見れば、それが客観的で妥当な意見なのです。そういう評価に甘んじるならば、どうして創作活動ができるでしょうか?

今まで産み出して来た作品を葬ることは忍びないので、美術活動を止めることはありません。ただ、対外発表はごくごく限られた範囲で行うことになると思います。美術界もビジネスであり、ビジネスモデルや人間関係の構築に主眼があるのであれば、私のような人間関係が不得手な人間には向いていないのです。

だらだらと愚痴を述べてしまいましたが、どれもこれも自責の感情から発せられた言葉であり、これを読んだ私以外の方に対して発せられた言葉ではありません。

どうかお気になさらずに。

■「焼却」-解説

ある男性が、焼き捨てるべき何某かを携えて川べりの道を歩き、街の外れにひっそりと佇むつぶれかけの焼却場にたどり着きます。その焼却場では、炉まで人が立ち入り、自らものを投げ入れることで 、対象物が本当に焼却されたかどうかを目で確認できることを彼は知っていました。 焼却場の重厚な扉を開けて中に入った彼は、黙々と作業をする従業員の姿に不思議な逞しさを感じるのですが、決して歓迎されてはいない雰囲気も同時に覚えました。一方、炉を覗き込むと、燃え盛る火が妖怪のように濛々とのたうち、あらゆるものを飲み込む自信を湛えて、次の生け贄を待ち構えていました。彼はためらいを覚えながらも、不要になった何某かを 炉に投げ入れ、焼却をあっけなく終えました。
 空虚さを感じる一方、目的の達成に満足した様子で外に出 た彼は、風に吹かれる中で己を省み、そして気付きました。焼き捨てたいと思っていたものは実は彼の頭の中にあり、それらの埋め込まれた記憶までは結局焼き去ることができなかった。 そして、彼は彼の目的が達成されるために何が必要か悟ります。否、それは予め分っていた事でした。彼は焼却という行為から、二者択一の契機に自らが立たされていることを一層強く理解し、一層深く苦悩するのです。

プロフィール

永瀬宗彦 - Nagase Munehiko

Author:永瀬宗彦 - Nagase Munehiko

画家・永瀬宗彦の雑記帳です。

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