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■文学

■最後の闘い

人類の環境世界の形がどうあれ、それが探求し尽くし得ないことが早晩明白となる。また、飽くまで無機質なもので構成されていることに気付く。神や創造主といった存在のあらゆる希望が幻想であったと認識される。人類そして他の生物は、その孤独を受け入れざるを得ない。期待は裏切られ続ける。なぜならその期待は、生物活動によって宿命的に植えつけられた精神構造を通じて多年草的に発生していて、生命が生じている限り決して尽きることなく、有限の中で永続するものだからである。

他の天体、他の宇宙に生物がいたとしても、孤独は決して回避できない。同時に、期待していた創造主がいないことで、救済を自ら行うために、絶滅を回避するあらゆる手段を講じる必要がある。それはつまり、自らのいる環境世界を再構成する能力をつけることに他ならない。しかし、悠久の時間は、人間が自らのスケールで計った短い時間から類推されたものであって、一瞬にして過ぎ去る莫大な質量とエネルギーの運動には、時間は付属していない。従って、人類が自らを救済する最期の闘いは、有限な自己が、その所属する無限の環境世界を乗り越えるという、重大な矛盾を孕んでいる。

■同人誌発行について 140603

<寺西先生のご許可を得て、以下転載>

同人誌発行について 140603
六月になりました。
既に14名の方々が、ノミネートされましたが、
5月末時点での提出された具体的テーマ(仮題)は、
以下のとおりです。
・山口椿、画譜
・戦後の美術史 (岡本太郎+丹下健三を中心に)
・フンデルトヴァッサー論 (お茶の水女子大修士論文概要)・
・都市、その歴史的変容 (東大出版概要+α)
・水 、夢の断片 (散文詩+オマージュ)
・もんもんとした絵画 (東京芸大美術博士論文概要)
・揺らぎ(1/f)の芸術 (東京芸大博士論文概要)・
・私の人生 (詩的小説)
・哲学のすすめ (元早稲田大学総長)
・New Leica Club 写真展紹介
・まだ、お題を頂いていない方々、お題をお知らせ下さい。
・各自の分量制限はありません。
・具体の作業をお勧めの方、ワードA4版にて作成をお願いします。
・カラー版で対応します。(白黒も可)
・掲載はアイウエオ順にさせていただきます。
まだ、分量に余裕がありますので、
掲載をご希望の方、募集します。
以上、よろしくお取り計らい、お願いします。
編集代表: 寺西、木下

■黄金の馬車-編集基本方針(2014/04/28版)

<寺西先生のご許可を得て、以下転載>

同人誌について2
かねてから、同人誌発行についてお知らせしました。この間、投稿ご希望があり、また投稿依頼をいたしてきました。
一方、けいゆう堂未刊の「黄金の馬車」15号についての厳しいご批判もありました。編集代表人といたしましては、15号につきましたは、その全く事情を把握しておらず、それへの対処法を持ち合わせておりません。
そのような事情を鑑み、本件につきましたは、以下の方針を基本とさせていただきます。
基本方針
・「黄金の馬車」とは、別刊行とする。
・執筆は、自由課題とする。
・内容は白黒を基調とし、カラー写真掲載も試みる。
・執筆分量の制限は行わない。
・発行本形式は46版(A4の半分サイズ、写真サンプル参照)とする。
・発効日は、原稿収集、編集等を考慮し決定する。
・編集責任は、寺西と木下(本年4月16日朝日新聞掲載人)が行う。
・刊行は必ず行う。
Next Step
・各執筆陣から、執筆予定の表題(仮称)の提供ー5月中。
・概略内容構成の形成。
現在の掲載予定内容は、以下のとおり。
・随筆、評論
・論文
・絵画、写真
・詩歌
などです。なお、今後も執筆陣の募集と依頼をします。
次回報告は、6月を予定します。
(サンプル写真)黄金の馬車サイズサンプル

■ふうせん 解説

第一部と第二部とは話としては分断されているように思えます。

第一部では、ふうせんの花が咲くという幻想が予感されます。
果たしてそれは主人公の希望がえがいた思い込みだったのか。
それとも本当に赤いつぼみがふうせんになって飛んで行ったのか。

その結論は語られずに、代わりに主人公が小鳥になって話が終わります。


第二部では、ふうせんの花、ふうせんの実が最初から出てきます。
第一部の幻想が、第二部の背景として引き継がれているようです。

誰しも子供の頃、たくさんのふうせんにつかまって空を飛ぶ幻想を抱いたのではないでしょうか。このイメージは、それほど目新しいものでも、珍しいものではありません。

ただし、それをお話の中で実現するには、たくさんのふうせんの木、ふうせんの花が必要でした。

第一部でその予兆、ふうせんの花が出てきたことで、第二部のふうせんの花、ふうせんの木の実のイメージへと展開していったのです。赤いふうせんが野原一面に咲いている様子、森いっぱいに実っている様子は、特に脈略のない、いわば子供の心に灯ったイメージのようですが、この部分は私は見聞きしたことはありません。作者のオリジナルと言えるでしょう。

さて、本編ではいろんな人達や動物や乗り物がふうせんにつかまって飛んでいきます。

主人公も飛びます。

みんな笑顔で、空の旅を楽しんでいるようです。

しかしこのイメージは、大震災後、津波の被災者達と重なって見えてしまいました。最初はふうせんがあったら逃げられたかもしれないという、妙に子供っぽい幻想でした。

その内、そのイメージは、津波にのみこまれた人たちのたましいが、ふうせんといっしょに天上へ上っているイメージだと気付きました。

私は、その絵が無意識に表現していたイメージに気付いた時、愕然とし、瞬間、私はボロボロと涙を流して泣いてしまいました。その後も、画面いっぱいに多くのふうせんを描く時、やはり泣いてしまいました。

私は、人々が津波から逃げ惑う姿や、高台から津波を見て絶叫する姿、無力感に襲われて茫然自失となっている姿、助け合う姿を、映像や文章で何度も接しました。

「上さあがれ」「堤防越えたぞ!」「津波きてます!」「家が流れてる」「尋常じゃねえ」「全滅だぞ」「はやく!はやく!」「にげて!」「ゆめじゃないの?!」「こんなんなっちゃうの?」「ここで大丈夫か!?」「今2階ですが、ここもどうなるかわかりません!」「だめだ」「止めてくれ」「なにが防波堤だ。何が防潮堤だ。」「おじいちゃんが!」「ともだち心配だ。」「がんばれー!手離すなー!」「あっあー!!」他にも、映像には映っていないのですが、最初ははしゃいで笑っていた若者が、あまりの度の超えた事態に、次第に声が出なくなってしまう様子などもありました。

空を飛んでいる絵は、実はそういった映像を見返しながら描きました。

震災当日、大津波警報が発令されたことを知った時、私は三陸海岸の人たちは防災意識が高いから逃げてくれるだろう、大丈夫だ、と思いました。その時、私は東京に住んでいて、あまりに遠くて自分は何もできない、無力を感じていました。だから、彼らなら大丈夫だと自分に言い聞かせました。

しかし実際は、私の予想を超えていたどころか、誰も予想できなかったような巨大津波が太平洋岸に押し寄せていました。私が最初に映像で、逃げ遅れた人を目にした時、先ほどの楽観視が崩れました。「いったい何万人死ぬんだ。」私は慄(おのの)きました。

そして、その後の話ですが、助かった人たちも、同胞が流されていくのをただ見送るしかない、無力感を感じていたことを知りました。津波の力はわれわれの想像を遥かに超えて、あまりにも絶大でした。津波に呑まれた人が、どこかの知らないおっちゃんでも、同じ日本人。何とか助けてあげたかった。でも無理でした。あの莫大な津波から住民を救うことは誰にも出来なかった。目の前であの津波を見て生き残った被災者の方のショックは計り知れません。一方で、時間が経つにつれて語られた体験談を読むうちに、私が感じた無力感は、生き残った被災者の人たちとも共有していたのだと分かりました。

この解説は、しばらくしたら封印することになります。「亡くなった方の魂をふうせんに譬えるなどもっての外」と言われてしまう可能性もあるからです。ただ、上記の通り、私も日本人として犠牲者や被災者を大切に思っていたこと、そしてこの作品が生き残った人たちの気持ちを受け止めようとしていることで、何ら後ろ暗いことはありません。しかし、世の中には、私の心根まで到達せずに、言葉尻だけで曲解する人もいます。この震災と原発事故で炙り出されたそういう人たちをたくさん見てきました。そういった人たちをいたずらに刺激して、余計な波風を立てて、犠牲者の魂の安らぎを乱すことはしたくありません。


さて、ふうせんが飛んだあとにどうするか悩みました。

鎮魂の意味もありますが、私も含めて、生き残った人たちへ気持ちを向けなければなりません。

最初、いっぱいのふうせんで虹をつくって、上った人達が降りてくることにしようと思いました。

しかしその辺りは適当でいいと思いました。つまり一旦上がったから、降りてこなければおかしい、という物理法則に依拠する必要はなく、裏の筋書きに沿えばいいのだと。

恐らく津波にもまれた主人公、彼もふうせんにつかまって一旦は天上へ上っていくのですが、奇跡的に助かるという裏の筋書きです。亡くなった方達の魂=ふうせんによって主人公が助かるというよりは、助かったのは偶然に過ぎないとしても、九死に一生を得たことで、その後に強く生きようとする意志は、やはり九死があってこそ、犠牲者の人たちがいてこそ生まれるのだという、そういうことです。

主人公の夢によって物語がつながれるので、途中までいっしょにふうせんで飛んでいたゾウに運び役をお願いしました。

主人公が気を失っている間はずっとふうせんの夢を見ていたのです。そして空にできたふうせんの草原を、ゾウの背中に乗って散歩します。日が暮れると共に暖かかった陽の光も翳ってくるのですが、それでも主人公は寒さを感じずに、暖かさを感じ続けていることを不思議に思って、目を覚まします。するとその温かさは、お父さんの抱擁の温かさをだったのです。

そして夢うつつの中で、無数のしかし一人一人の死者のたましいが天上へ向かう姿を見送るのです。

■ふうせん 第二部

第一部を描いてからずいぶん時間が経ちました。その間に大野先生も亡くなりました。

次にどんな展開にするか、考えあぐねていたところ、私に子供が出来ました。赤ん坊は赤い色を喜ぶようでした。"message"の赤い風船の絵を指差しながらよく「ふぅ」(風船)と言っていました。私はそれが嬉しかったのです。

だったら、言葉もまだ分からないこの子供のために"message"を元にして、私家版の絵本を描こうと思いました。

そうこうする内に東日本大震災が起きました。東京に住んでいたので被災というほどのことはありませんでしたが、心はだいぶ揺らされました。そして2人の娘はまだ小さく、福島からの放射能の影響を恐れて母娘を一旦長野と大阪の親戚の許に預けました。4号機の使用済み核燃料プールの様子だけは気になりましたが、それを除けばこれ以上の大規模な放射能の放出は無いとみて、2011年の5月に東京に戻り、無事すくすくと育っています。

私の家族が難を逃れた一方、東北の被害を見聞きして暗澹たる思いを抱くと共に、亡くなった方への鎮魂と、遺族の方への慰労を願う気持ちが強くなりました。同時に、東北の方の犠牲によって気付かされたことはとても大きかった。つまり、生きていることへの感謝の念が強くなりました。それがどういうことか、解説でもう少し詳しく述べています。

ストーリーに震災の描写はありません。しかし震災を経験した人なら分かる通り、この筋書きは震災後でしか出来ないものです。"message"が震災によってもういちど命を与えられたのだと思います。

(今後大幅に改訂する可能性があります)

****************

ふうせん 第二部

この木はふだんは何てことない木だけど、1000年に一度の朝にだけ赤い実をつけるという。

この草はふだんは何の役にも立たない草だけど、1000年に一度の朝にだけ赤い花をつけるという。

そんな言い伝えがある木と花が、この地方にはたくさん生えていた。

その日が来た。

朝、草っぱらには赤い花が一面に咲いた。

朝、森の木にはたわわに赤い実がついた。

そして赤い花と赤い実は、次々にふくらんだ。

お昼のあと、ふくらんだ赤い花と赤い実は、風船になって次々と空へ飛んでいった。

村や町やみやこの人たちは、目を丸くしてビックリしていた。

そのうち、みんな風船につかまって飛んでいった。

僕は、大人が風船で遊ぶなんて、不思議だなと思った。

僕のおともだちも風船につかまって飛んでいった。

みんな楽しそうだった。

だから僕も木に上って風船をつかんだ。

「フワリ」

風船といっしょに僕は空へ上がった。

軽トラに乗ったおっちゃんが、風船をいっぱいつけて飛んでいった。

漁師の兄弟も船に乗ったまま飛んでいった。

おとなりのお父さんも新しいお家といっしょに飛んでいった。

ゾウさんも鼻で風船をつかんで飛んでいった。

クジラの親子も飛んでいった。

おばちゃんもおじちゃんも、赤ちゃんも小さい子もおかあさんもいっしょに飛んでいった。

僕は、ゾウさんの背中にのって、風船でいっぱいになった空をおさんぽした。

ゾウさんが僕をどこへ連れてくれるのか分からなかった。

空の上は、お陽さまが暖かかった。

僕はきもちよくなってゾウさんの背中でいねむりをした。

目を覚ますと僕はお父さんに抱っこされていた。

僕はうとうとしながら、ゾウさんやおともだちやおっちゃん、おばちゃん達が風船になって、お空へ飛んでいくような気がした。

僕とお父さんは、ふうせんが青いお空を真っ赤にしながら飛んでいくのをずっと見送っていた。

第二部おわり。

■ふうせん 第一部

経緯

私の作品に"message"というシリーズのイラストがあります。私には珍しいポップな作風で第1作から第6作まであります。第1作は、もともとは所属していた美術サークルの情宣用のハガキの絵柄でした。とても印象的なその構図は、外から差し込む白い日差しや、蛍光灯の光などが交錯している中から、ふと思い付きました。

翌年、そのデザインを書き直し、大学祭のポスターデザインのコンペティションに応募しました。もともと応募点数の少ないコンペティションなので、あっさり採用されました。

その時のポスターが、あとからガラス吹きの故 大野貢先生の目にとまりました。大野先生との出会いは、私が画業を続けるキッカケになりましたから、私にとってこの"message"は記念碑的な絵になりました。

このシリーズにはストーリーがあります。でも本文もセリフもありません。私は悪文家なので文章を添えるよりも、ぜんぶ絵にした方がいいと思っているからです。しかし、そうは言っても絵だけでうまくいくという自信もありません。2013年に人前に展示する機会を得ましたので、この際だから説明を書こうと思いました。

おおかた次のような筋書きです。

(今後大幅に改訂する可能性があります)

***********************************
ふうせん 第一部

小さい子が持っていた赤い風船が空へ飛んでいった。図■

それを見た通りすがりの人が風船を取り戻そうとした。図■

彼は腕をばたつかせて空を飛んだ。図■

彼はずっと高い空まで飛んでいった。

そして彼は赤い風船を一旦はつかんだ。図■

しかし彼は強くつかみすぎていた。

風船は「パン」と破裂した。図■

赤い風船のかけらは四分五裂して四方八方へ飛び散った。

彼は風船のかけらといっしょに地面に墜落した。

***

最初に風船を持っていた小さい子はもういなくなっていた。

だけど彼はふうせんを割ってしまったことを謝りたかった。

彼はお墓を立てて風船のかけらを埋葬した。

毎日そのお墓に水をかけていた。

春になってお墓の土から若芽が出てきた。

彼は嬉しくなってその若芽を大事に育てた。

若芽から赤いつぼみが出来た。

それは割れた風船と同じような赤色だった。

彼は赤い花が咲くことを楽しみにしていた。

ある日、赤いつぼみは無くなっていた。

彼はガッカリした。

そしてこう考えた。

「きっと赤いつぼみがふくらんで、赤い風船になって飛んでいったんだ。」

そう思って空を見上げたけれど、風船はもう空のどこにも見えなかった。

彼はそれでも追いかけた。

めくら滅法に行ったり来たり、上ったり下がったり、うら返したり、もとに戻したり。

ずいぶん長い間さがしていたけれど見つからなかった。

彼はさがし続けた。

あんまり長いあいだ飛び続けていたから、彼はそのうち鳥になって人間の心を失ってしまった。

赤いお花が大好きな鳥になって、春になるとうるさいくらいに囀った。

第一部おわり。

■ガッカン人

1974年。学生会館は未完成のうちに、学生運動で荒ぶる学生達によって奪取された。途中だった内装工事は停止され、すぐさま学生の活動が開始された。そして奪取から19年経っても工事は再開されず放置され続けた。そのため、建物内部はコンクリートが剥き出しになり、その匂いが異様なほど立ちこめる結果となった。

私が学生会館に初めて足を踏み入れた時は、すでに時代は1990年代半ばだった。バブルの夢覚めやらぬころだ。それにも関わらず、学館の壁面には時代錯誤はなはだしいゲバ文字のチラシが並んでいた。いや、並ぶどころではない。チラシは上から上から貼られ、幾重にも折り重なり、言わば「垂直の地層」を形成して、へばり付いていた。もし深く掘り進んだならば、70年代の化石が発見できたはずだ。

外観は恐ろしく汚く、入り口は狭い。内部は薄暗くジメジメしていて、一見して排他的であり、誰も入りたがらないような建物だった。しかし、髭をたくわえた応援団員がカチカチと靴を鳴らして歩き、一方で長髪のヒッピーじみた人物がパンタロンを靡かせて歩いていた。もちろん平均的な学生も数多く出入りしていた。とにかく、意外にも人が引っ切り無しに往来していた。

学生による自治を標榜し、大学当局者を寄せ付けない一方で、たまに別の当局のガサ入れの噂があった。外堀公園には「私服」が過激派の様子を伺っているとも言われていた。たまにデモがあると、キャンパスの周囲には警戒車両が横付けされた。

24時間出入り自由だった。22時半ごろには閉館の放送が流れ、23時には正門の門扉は閉められるが、学生達はそれを乗り越えて学館に出入りした。警備員は見てみぬフリをするどころか、ギリギリに入ってくる学生には通用門を開けてくれた。彼らは学生組織と連携しているとも言われていた。

いわゆるガッカン人という人種がいた。講義に出ずに、学館の部室に入り浸っていると、そうやって周りから揶揄されたものだ。最深の意味は、左翼活動のために学館に居住している人達や、学館の幹部となり仕事のために寝泊りしているような人の蔑称であった。しかし一般人であっても、やんごとない事情によりそれに近い生活を送っていた人もいた。日の当たらず風通しも悪い部室で寝泊りすることは不健康極まりないが、何よりその浮世離れしたところが、


学館ベビーという言葉があった。左翼のカップルが学館で産み落とした子供がいるという話だ。一時期、痩せぎすの左翼学生がスピーカーで弱々しく演説するのを指して、あれは学館ベビーが成長して親の後を継いだのだとおちょくる人がいた。しかもその彼はブラジャーを着けているという妙な伝聞もあった。

GLCとはグループリーダーズキャンプの略で、学生団体の幹部、サークルの部長、副部長などとその候補が参加する、一泊の合宿であった。私はそれに、1年生も終盤の1月に参加した。

余興の「とり」はルポルタージュ研究会だった。「次はルポルタージュ研究会」と司会が言うと、一部の幹部が素早く動いた。ステージの前のテーブルが除けられ、座布団が投げ入れられて、手際よく敷き詰められた。今までのサークルとは明らかに扱いが違うと感じた。すると、見るからに老けた30代と思しき人が登壇し、なにやら演説でも始まるのかと思いきや、「ロケット砲」と発するが早いか、敷き詰められた座布団めがけて彼自身が飛び込んだ。ところが宴席はまったく盛り上がらず、幹部らから「お疲れ様でした。」の声が上がり、淡々と片付けが始まった。先輩に聞くとその余興は恒例とのことだった。


廊下は雑然としていて無秩序だった。いやしかし案外そこには何らかの秩序があり、つまり無秩序に見える廊下に過ぎなかった。

学館は本部棟とホール棟に分かれており、本部棟には学生団体の本部およびサークルの部室があった。それらはBOX(ぼっくす)と言われていた。例えば私が所属していた「美術集団あ?と」という時代を感じさせる名称の美術サークルの部室はBOX719だった。縦長の建物の一番端の部屋だったのだから、1フロアに19部屋はあったのだろう。


ホール棟は地上5階、地下2階建てだった。小中規模のいくつかのコンサートホール。そして音楽練習スタジオ、展示用ホール、アトリエ、会議室があった。それらは15番、10番というように番号で呼ばれていた。

大ホールでは主に学内のサークルが発表を行っていたが、それなりに著名なミュージシャンのライブや演劇が催されることもあった。

「ちかしょく」は倉庫として使用されていた。「じぎょうい」に言って空けてもらうのだ。


労働争議や学生運動が盛んな高度経済成長期ならともかく、バブルの夢覚めやらぬ時期のこの騒ぎは、さながら大時代の映画を観ているようだった。

学内誌では、裏手のY神社とのコントラストを面白おかしく揶揄していた。

私はサークルの幹部候補になり、この学生会館の歴史について学ぶことになった。その際、上記の奪取事件のことを初めて聞いたのだ。異様なコンクリート臭にも理由があることを知り、それが自分の生年と同じ年の出来事である偶然に驚いた。



ワクワクする体験というのはこういうことだと思った。サークルでは思想がぶつかり合った。ネコの額ほどの校庭では、左翼学生がしわがれた声をあげていた。平均的な学生はそんな声を無視した。

■鶴見線と京浜工業地帯(9)

私は鶴見に直行する列車に揺られながら、途中下車した駅や、海の風景を眺めなおした。コンクリートの灰色を基調とした工業地帯は、緑と融和してことのほか美しかった。

実は世の中の大部分は裏方で、表舞台の上というのはその中のほんの一部に過ぎない。煌びやかな装飾品ですら、貨物船に乗って運ばれてくる間は暗渠の中でひっそりと眠っていて、一瞬の出番を長い裏舞台で待っているのだ。

工場やプラント群はそれらの裏方の一つだが、一方でそれは莫大な力を注いだ野心の塊でもある。その大きさ、むき出しの目的、自然を切り裂く形態は、見るものを圧倒する。

そして、今回訪問した京浜工業地帯は、そういった自我がほどよく削れて丸くなり、自然に馴染んでいた。ギラギラした眼光は穏やかに見守る眼差しに、切っ先鋭い刃物は子供を撫ぜる手に、草一つ生えなかった土地は、いつしか森になっていた。だからこそ、猫の親子は並居る機械群とすっかり共存しているように見えたのだ。

鶴見駅に着くと土曜の夕方の駅は、週末で上気した人で賑わっていた。さっきまでの鶴見線沿線の静けさが嘘のようだった。お土産も何も無かったが、私は迷いも無くまた行こうと思った。

■鶴見線と京浜工業地帯(8)

石油化学プラントは砂漠が似合う。駅から出て昭和方面に外歩くと、西からの日の光は強く、閑散とした道路を照らしつけていた。そのため水分は乾上って、埃っぽい風が吹いていた。遠くを眺めても樹木はなく、砂漠にいる印象が強まった。

右手側に大小さまざまなタンクと、鉄製のパイプの構造物が遠望できた。おそらく新日本石油と東亜石油の製油所だ。


左手側には大型のタンクローリーが給油をするであろう施設があった。今は人っ子一人いないが、平日にはこの施設も賑わうのだろう。しばし想像してみる。

ペットリバースという会社があった。最初この名前を区切る位置が判らなかった。ペットリ・バースなのか、ペット・リバースなのか?しばらくして、ペットはペットボトルのペットのことで、リバースはリサイクルを意味していることが判明した。要するにペットボトルのリサイクル工場だ。他に名前の候補は無かったのだろうか。意味としては正しいのかもしれないが、何というか、あまりに直接的だ。こういったネーミング・センスの良し悪しは、リリースしてみないと判らないという側面を持っている。受け取る側がどれだけ勘違いしてしまうか、そして勘違いすることがいつか正しくなるという逆説が存在すること、これを予想しつつネーミングをすることは難しい。

次の帰りの電車の時間まで30分程度。道路も一つしかなく、しばらくあるいて同じ道路を引き返すのが精一杯で、それ以上散策することはできなかった。


駅に戻って、おざなりに育てられた植木を眺めていた。サボテンが密集している鉢が気になった。彼らの棘は、生きるうちに育っていったのではなくて、棘が生えていた種類が生き残ったのだ。猫は可愛いのではなく、可愛い猫が生き残ったのだ。そういった変化と適用には必ず死が介在していることを思う。


電車が到着した。



私は主に右側の窓に張り付いて写真を撮った。

■鶴見線と京浜工業地帯(7)

駅構内の猫はみな人慣れていた。警戒感は無く、撫ぜるとまぶしそうな顔をして寝転がった。ところが、その中で一匹だけは少し様子が違った。私が改札口に近づくと、歩調に合わせてついて来た。止まると猫も止まった。引き返すとその場で座り込んだ。

私は駅舎の軒下へ移動した。別の猫が餌を食べるのを写真に収めようとしたのだ。すると、カメラマニア然としたお兄さんが私に話しかけてきた。彼は黒い革のジーンズを履いていた。

「あっちに子猫がいますよ。」「改札の向こう側ですよ。」
「へー、ありがとうございます。」

親切だなと思った。土地勘がない分、人に話しかけやすい観光地のような感覚だ。

私は、餌をつまんでだらしなく寝そべるオス猫の写真を撮ったあと、改札口を出てみた。すると右手のゴミ捨て場に、子猫が数匹寄り添って寝ていた。何匹かは起きていて、ミャーミャーと鳴いていた。たどたどしい足取りで兄弟を踏ん付けたり、発泡スチロールの箱の上にジャンプしたりしていた。衛生状態が悪く、子猫たちは目ヤニをためて、小蝿がたかっていた。すると、さっき私についてきた猫が、その発泡スチロールの箱の上にあがって、子猫たちを見下ろす場所に座った。なるほど、この猫はこの子達の母親なのだ、さっき私について来たのは警戒していたのだ、と気づいた。子猫たちは母親が来ると俄然はしゃいで、浅い眠りから目を覚ます子もいた。母猫は子供達のおねだりを意に介さない様子で、誇らしげにそこに寝そべった。

駅の外は、これまでとも様子が違った。工業・倉庫地帯というよりは、大規模プラント地帯のようで、ひとつひとつの敷地が広くて茫漠としていた。木々はほとんど無くなり、コンクリートの隙間からようやく草が生えている程度だった。広い割には周囲に人気は無く、まるで砂漠にいるような感覚になった。

プロフィール

永瀬宗彦 - Nagase Munehiko

Author:永瀬宗彦 - Nagase Munehiko

画家・永瀬宗彦の雑記帳です。

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