■建築
■55年館、58年館
はしがき
本書は大江宏(1913-1989)の設計による法政大学55年館, 58年館の100枚超の写真記録である。 同館は1955年,1958年に竣工して2019年に解体された、場所は東京都千代田区富士見の市ヶ谷キャンパス内である。 二つの建築物は接合されており外観上は一つに見える。また、これら以外にも大江の設計したキャンパス内の建物はあった。大学院棟だった53年館、第II 58年館、市谷田町の62年館である。大江のキャンパス計画はこれら全てで一体化していた。
計画はいくつかの変遷を経て、市ヶ谷再開発計画に取って代わられた。1995年に53年館、第II 58年館が取り壊された。 2016年に551教室や会議室棟が取り壊された。そして2019年に55年館,58年館の本体が無くなった。 2020年時点では、62年館がリノベーションされた形でかろうじて残っている。不完全ではあるが、大江宏のプランの全体感を残している段階での撮影に意義があると思い、 2014年当時に撮影し、まとめたものが本書である。
あとがき
竣工した西暦の下二桁で呼称を決めていた法政大学・市ヶ谷キャンパスの建物群において、55年館・58年館はいわばシンボル的な存在であった。大小無数の教室が揃い、教職員室や第一、第二食堂、売店などが集積していて、多くの学生が昼夜を問わずひっきりなしに行き来する、大学の中心部でもあった。
市ヶ谷キャンパスの敷地面積は狭かった。大江のプラン以外にも、戦前から残っていた第一校舎、図書館、就職課のあった一口坂校舎、73年に建てられた学生会館の本部棟・ホール棟、体育館などがあり、雑然としていた。学生運動の激化への対処や、大学のマンモス化に伴い、80年代に多摩キャンパスへ社会学部・経済学部が移転したが、第二次ベビーブームの世代が学生になる90年代には手狭感は否めなかった。大江宏による計画を破棄して、市ヶ谷再開発計画を立てたことは、外部環境から見て必然的であったと言えなくもない。もちろん筆者は内部の政治的な葛藤は存じ上げない。
建築物やその遺構には為政者の恣意性が入りにくく、客観的に歴史を叙述している*1としたのはケニス・クラークである。もしそうであればこの建物を基軸にして、日本の戦後思想の変遷が垣間見える。大江の理想のうち何が機能して何が機能しなかったのか、何を失い何が残ったのか。この解明には同時代を過ごした人達の証言が必要となる。本書がその「よすが」となれば幸いである。2020年12月 永瀬 宗彦
あとがき(未掲載
2019年に55年館,58年館は取り壊されたが、これは建築物の喪失と見るだけでなく、アカデミズムのプランの変質と見ることが出来る。法政大学は名前は知られているが、内実は世間にはあまり知られていない。卒業生は多いはずだが、寡黙にして語りたがらない。この理由は、戦前社会の反省から、単純な序列化を避けてきた本学全体の雰囲気が反映されていると筆者は見る。大江が欧州視察後に打ち出した「混在併存」*1*3 的なコンセプト変更にもこの雰囲気と共通点がある。この心境変化により、総長室が脇に移動して、学生ホールが中央になるというプラン変更があった。これは、要するに中央集権的なヒエラルキー型から、学生中心の自律分散型へのコンセプト変更に見える。また、歴史が重層的に積み上がりながらも、それらが混然一体となって存在しているのだという、彼の主張が裏打ちされているようにも見える。建築物やその遺構には為政者の恣意性が入りにくく、客観的に歴史を叙述している*2としたのはケニス・クラークである。もしそうであればこの建物を基軸にして、日本の戦後思想の変遷が垣間見える。40,50年代のアメリカの統治と日本の経済復興、60年代の社会運動の勃興、’70年代のそのアンダーグラウンド化、’80年代の共産圏の衰退、’90年代には冷戦そのものが終わり、今日のポスト冷戦期まで建物は生き残った。多くの称賛を集め、ある種のデモクラティックなアカデミズムの理想の橋頭堡となった設計コンセプトは、時代の変遷とともに顧みられなくなった。この間、理想のうち何が機能して何が機能しなかったのか、何を失い何が残ったのか。これらが分かれば、これから社会がどこへ向かっているかが、ある確度で予想できる。単なる記録写真である本書にも、一抹の思想史的な意義が見出せる。
一方で、その意義の片方は、そこに通って時間を過ごした人達の記憶に他ならない。あまり語りたがらない彼等に、歴史の証人としての使命を付与するのが大江宏の建物であり、本書であるように思う
竣工した西暦の下二桁で呼称を決めていた法政大学・市ヶ谷キャンパスの建物群において、55年館・58年館はいわばシンボル的な存在であった。大小無数の教室が揃い、教職員室や第一、第二食堂、売店などが集積していて、多くの学生が昼夜を問わずひっきりなしに行き来する、大学の中心部でもあった。とはいえ私が入学した94年にはだいぶ年季が入って時代遅れに見えていた。唯一戦前から残っていた第一校舎、大学院棟だった53年館、市谷田町の62年館、就職課のあった一口坂校舎、73年に建てられた学生会館の本部棟・ホール棟など、ピカピカとは言い難いどころか、とんでもなく雑然として汚いそれらは、キャンバスに跋扈する中核派やロケンローラーのバンドメン、応援団や体育会の人達、昼間部と夜間部の学生、教職員らとも相まって、冷戦後に取り残されたユートピアの空気をまとっていた。特に新入生歓迎の春と、大学祭の秋は、キャンパス全体が立て看板と貼り紙であふれて混沌としていた。大学のシンボルはそんな空気の中では忘れられがちだった。
わたしの卒論指導をしてくれた原田 煕史教授に、55,58年館の設計者が国立能楽堂などを手掛けた建築家の大江宏教授だと教えてもらったのは、私が学部を卒業してからだった。中東風のカラムや床の模様、波型ルーフ、和風の格子、コンクリートの打ちっ放し、かわいい小窓など、歴史的なモチーフとモダニズムとが折衷されている様子は、そう言われてみれば確かに、壮大かつ遊び心に富んだものだった。戦後10年、少ない予算であれだけのものをよく建てたと聞いてから、がぜん興味が湧いた。
その後も私は、大学院や科目履修で市ヶ谷に通っていた。そのあいだ、より新しい学生会館が先に取り壊された一方で、55年館、58年館が「市ヶ谷再開発」の名の下に取り壊される計画であることも、ずいぶん前から聞いていた。そこでまだ現役のうちにこの貴重な建築物の写真を取っておこうと、ゼミのない夏の休日にキャンパス赴いて撮影したのが本作である。いろいろと撮影し忘れたポイントも多いが、建築資料として意味のあるものであることを願う。
今回は記録写真という意味合いが強いために撮影されていないが、この建築物は、外堀公園の桜が咲く入学式前後がもっとも美しかった。青春の日々を過ごした空間は、こうして見てみるとそのすべてが愛おしい。ここに通って時間を過ごした多くの人たちに本作を捧げたいと思う。2020年12月 永瀬 宗彦
*1 「大江宏設計「法政大学市ヶ谷キャンパス計画」の設計過程」石井他 *2 「芸術と文明」ケニス・クラーク 法政大学出版局*3「建築作法―混在併存の思想から」大江宏 思潮社
本書は大江宏(1913-1989)の設計による法政大学55年館, 58年館の100枚超の写真記録である。 同館は1955年,1958年に竣工して2019年に解体された、場所は東京都千代田区富士見の市ヶ谷キャンパス内である。 二つの建築物は接合されており外観上は一つに見える。また、これら以外にも大江の設計したキャンパス内の建物はあった。大学院棟だった53年館、第II 58年館、市谷田町の62年館である。大江のキャンパス計画はこれら全てで一体化していた。
計画はいくつかの変遷を経て、市ヶ谷再開発計画に取って代わられた。1995年に53年館、第II 58年館が取り壊された。 2016年に551教室や会議室棟が取り壊された。そして2019年に55年館,58年館の本体が無くなった。 2020年時点では、62年館がリノベーションされた形でかろうじて残っている。不完全ではあるが、大江宏のプランの全体感を残している段階での撮影に意義があると思い、 2014年当時に撮影し、まとめたものが本書である。
あとがき
竣工した西暦の下二桁で呼称を決めていた法政大学・市ヶ谷キャンパスの建物群において、55年館・58年館はいわばシンボル的な存在であった。大小無数の教室が揃い、教職員室や第一、第二食堂、売店などが集積していて、多くの学生が昼夜を問わずひっきりなしに行き来する、大学の中心部でもあった。
市ヶ谷キャンパスの敷地面積は狭かった。大江のプラン以外にも、戦前から残っていた第一校舎、図書館、就職課のあった一口坂校舎、73年に建てられた学生会館の本部棟・ホール棟、体育館などがあり、雑然としていた。学生運動の激化への対処や、大学のマンモス化に伴い、80年代に多摩キャンパスへ社会学部・経済学部が移転したが、第二次ベビーブームの世代が学生になる90年代には手狭感は否めなかった。大江宏による計画を破棄して、市ヶ谷再開発計画を立てたことは、外部環境から見て必然的であったと言えなくもない。もちろん筆者は内部の政治的な葛藤は存じ上げない。
建築物やその遺構には為政者の恣意性が入りにくく、客観的に歴史を叙述している*1としたのはケニス・クラークである。もしそうであればこの建物を基軸にして、日本の戦後思想の変遷が垣間見える。大江の理想のうち何が機能して何が機能しなかったのか、何を失い何が残ったのか。この解明には同時代を過ごした人達の証言が必要となる。本書がその「よすが」となれば幸いである。2020年12月 永瀬 宗彦
あとがき(未掲載
2019年に55年館,58年館は取り壊されたが、これは建築物の喪失と見るだけでなく、アカデミズムのプランの変質と見ることが出来る。法政大学は名前は知られているが、内実は世間にはあまり知られていない。卒業生は多いはずだが、寡黙にして語りたがらない。この理由は、戦前社会の反省から、単純な序列化を避けてきた本学全体の雰囲気が反映されていると筆者は見る。大江が欧州視察後に打ち出した「混在併存」*1*3 的なコンセプト変更にもこの雰囲気と共通点がある。この心境変化により、総長室が脇に移動して、学生ホールが中央になるというプラン変更があった。これは、要するに中央集権的なヒエラルキー型から、学生中心の自律分散型へのコンセプト変更に見える。また、歴史が重層的に積み上がりながらも、それらが混然一体となって存在しているのだという、彼の主張が裏打ちされているようにも見える。建築物やその遺構には為政者の恣意性が入りにくく、客観的に歴史を叙述している*2としたのはケニス・クラークである。もしそうであればこの建物を基軸にして、日本の戦後思想の変遷が垣間見える。40,50年代のアメリカの統治と日本の経済復興、60年代の社会運動の勃興、’70年代のそのアンダーグラウンド化、’80年代の共産圏の衰退、’90年代には冷戦そのものが終わり、今日のポスト冷戦期まで建物は生き残った。多くの称賛を集め、ある種のデモクラティックなアカデミズムの理想の橋頭堡となった設計コンセプトは、時代の変遷とともに顧みられなくなった。この間、理想のうち何が機能して何が機能しなかったのか、何を失い何が残ったのか。これらが分かれば、これから社会がどこへ向かっているかが、ある確度で予想できる。単なる記録写真である本書にも、一抹の思想史的な意義が見出せる。
一方で、その意義の片方は、そこに通って時間を過ごした人達の記憶に他ならない。あまり語りたがらない彼等に、歴史の証人としての使命を付与するのが大江宏の建物であり、本書であるように思う
竣工した西暦の下二桁で呼称を決めていた法政大学・市ヶ谷キャンパスの建物群において、55年館・58年館はいわばシンボル的な存在であった。大小無数の教室が揃い、教職員室や第一、第二食堂、売店などが集積していて、多くの学生が昼夜を問わずひっきりなしに行き来する、大学の中心部でもあった。とはいえ私が入学した94年にはだいぶ年季が入って時代遅れに見えていた。唯一戦前から残っていた第一校舎、大学院棟だった53年館、市谷田町の62年館、就職課のあった一口坂校舎、73年に建てられた学生会館の本部棟・ホール棟など、ピカピカとは言い難いどころか、とんでもなく雑然として汚いそれらは、キャンバスに跋扈する中核派やロケンローラーのバンドメン、応援団や体育会の人達、昼間部と夜間部の学生、教職員らとも相まって、冷戦後に取り残されたユートピアの空気をまとっていた。特に新入生歓迎の春と、大学祭の秋は、キャンパス全体が立て看板と貼り紙であふれて混沌としていた。大学のシンボルはそんな空気の中では忘れられがちだった。
わたしの卒論指導をしてくれた原田 煕史教授に、55,58年館の設計者が国立能楽堂などを手掛けた建築家の大江宏教授だと教えてもらったのは、私が学部を卒業してからだった。中東風のカラムや床の模様、波型ルーフ、和風の格子、コンクリートの打ちっ放し、かわいい小窓など、歴史的なモチーフとモダニズムとが折衷されている様子は、そう言われてみれば確かに、壮大かつ遊び心に富んだものだった。戦後10年、少ない予算であれだけのものをよく建てたと聞いてから、がぜん興味が湧いた。
その後も私は、大学院や科目履修で市ヶ谷に通っていた。そのあいだ、より新しい学生会館が先に取り壊された一方で、55年館、58年館が「市ヶ谷再開発」の名の下に取り壊される計画であることも、ずいぶん前から聞いていた。そこでまだ現役のうちにこの貴重な建築物の写真を取っておこうと、ゼミのない夏の休日にキャンパス赴いて撮影したのが本作である。いろいろと撮影し忘れたポイントも多いが、建築資料として意味のあるものであることを願う。
今回は記録写真という意味合いが強いために撮影されていないが、この建築物は、外堀公園の桜が咲く入学式前後がもっとも美しかった。青春の日々を過ごした空間は、こうして見てみるとそのすべてが愛おしい。ここに通って時間を過ごした多くの人たちに本作を捧げたいと思う。2020年12月 永瀬 宗彦
*1 「大江宏設計「法政大学市ヶ谷キャンパス計画」の設計過程」石井他 *2 「芸術と文明」ケニス・クラーク 法政大学出版局*3「建築作法―混在併存の思想から」大江宏 思潮社