■「あなたの美術作品の中には哲学が入っているのではないか?」
個展等をしていると、よく、次のように質問されます。
「あなたは哲学を学んだのだから、あなたが制作した美術作品の中には、哲学的な要素が入っているのではないか?」
私はたいてい、次のように回答します。
「意識的に入れたことはありません」
しかし、私がいくらそう言っても、やはりその方も、その様に質問するからには、私の作品に哲学をお感じになったり、お考えになったのだと思います。私が哲学を学んだとご存じない方でも、そのような指摘をすることがあります。ですから、私が知らず知らずのうちに、哲学的要素は、作品に含み込まれてしまっているかもしれません。
しかし実は、「意識的に入れたことはありません」という表現は正確ではありません。正しくは、「意識的に除去しています」という表現だと思います。その結果で、つまり除去したことで、絵画に哲学的な何かを感じていらっしゃるのかもしれません。
どういうことでしょうか?
哲学は汎用的な考え方です。我々が摂取する情報の中には、哲学的要素が混入しています。例えば、日本は戦前から重商主義が幅を利かせていますが、ここにはアメリカ的な功利主義、プラグマティズムが見え隠れします。プラグマティズムそのものは、私は勉強していませんし、あまり耳にしませんから、日本で浸透している考え方として探すのは難しいですが、同主義は、ドイツやフランスの実存主義と近接していて、それを取り入れております。
では実存主義から探してみましょう。ハイデガーの『存在と時間』が1933年の出版であります。その概念がドイツから直接、あるいはアメリカのプラグマティズム経由で日本に根付いていると考えることは自然だと思います。
むしろ、ハイデガーの考え方が、資本主義的な律動に根ざしていて、それを定式化しようと試みているかのようにも見えます。「企投」などという彼の言葉は、誤解を覚悟で言えばですが、経済原理を個人に適用する際の言葉、「自己投資」という言葉・行為に置き換えることが出来るかもしれません。逆照射的に見れば、ということです。
そういった思想の摂取を、われわれは日々の生活や仕事の中で行っているのではないか、あるいは、われわれの日々の生活や仕事や考え方を、哲学は逆照射して、定義しているのではないか、と、漠然と感じています。「われわれは哲学を常に摂取して、含んでいる。」のだと。
だからこそ、私は、美術作品から哲学を「除去しています」が正しいと思うのです。では、哲学を除去してなお、哲学的である理由はなんでしょうか?
ここでまた話が飛びます。
カント美学の要諦は何か?と質問されたら、私は最初に「無関心性」と回答するでしょう。No interest, Ohne Interesseです。これも誤解を恐れずに言えば、例えば絵を鑑賞する際に、その絵の値段が何か、将来いくらになるか等を考えていたら、美感は得られない、ということなのです。そういったことを度外視して、絵だけを見ない限り、感じることは「欲動」であって「美感」ではないということです。なお、interest,Interesseは投資的関心という意味があります。
カント美学がこのような要諦ですから、私は、絵画に哲学が混入してしまったら、まずいと思います。哲学は、関心性が生じるものです。つまり、哲学が混入すると美感が損なわれるということです。
このことは、アドルノがいみじくも「カント美学は、彼が第一義と考える彼の道徳哲学と接合することによって、歪んでしまっている(要旨)」(アドルノ『美の理論』)と指摘しています。炯眼です。道徳理論と美感的判断力が「結合子」によって結びついている点は、『判断力批判』の第一部の後半にて行われます。
ですから私は哲学を「除去」します。出来る限り徹底的に関心性を遠のけます。その結果、美感だけが残るように努めるのです。なぜかと言えば、単に私が画家で、絵画に美を求めているからだと思います。
そして、逆に、哲学を学んでいない人は、この「除去」をしていないのです。
後天的な自分自身の考え方はいいのです。意識して勉強していますから。そうではなくて、先ほど述べたような、知らず知らずのうちに自分自身の血肉になっているような思想は、ふつうは意識できないので、除去もできません。これは、残念ながら専門的な勉強をしない限り、できないと思います。すると、哲学的な関心性がそこに混入することになります。
それから逃れることは、基本的にできません。誰しも時代と共に生きています。私もそうです。私も、関心性を除去するために哲学を学ぶ、というそこまで本末転倒なことはしていません。
美感的な純粋性にまで到達している人はごく稀です。何かしら、時代の空気から感じ取ったような思想が読み取れることがほとんどです。
その思想そのものが流行思想だったり、あるいは興行的・商業的な動機から流布された、「かっこうのいい考え方」だったりする場合もあるでしょう。それが悪いという意味ではなく、そういうアプローチがあってもいいし、私のような混入物に神経質なアプローチがあってもいいと思うのです。私の作品は、硬質であるとか、純粋であるとかいう形容を頂くことがありますが、その部分だけに関しては上記のような説明で、その理由が説明できるような気がします。
そして、私自身は関心を呼ぶ思想に依拠しないように、なるべくしているのですから、自然な流れとして、美術史や美術のトレンド、あるいは一般的な流行から独立することになります。現代美術のカテゴリーがあるとすれば、私の作品は明らかに欄外です。
欄外であっても、美感を呼び起こすことが出来ている、無名の画家なのに、悪くない、鑑賞者はそう感じて、私に哲学があると言うのだと思います。哲学が無いことで、哲学があると感じるのは、なんとも不思議です。しかし、哲学も美感も、実はそういった、強い独立性を求めているものなのではないでしょうか。
「あなたは哲学を学んだのだから、あなたが制作した美術作品の中には、哲学的な要素が入っているのではないか?」
私はたいてい、次のように回答します。
「意識的に入れたことはありません」
しかし、私がいくらそう言っても、やはりその方も、その様に質問するからには、私の作品に哲学をお感じになったり、お考えになったのだと思います。私が哲学を学んだとご存じない方でも、そのような指摘をすることがあります。ですから、私が知らず知らずのうちに、哲学的要素は、作品に含み込まれてしまっているかもしれません。
しかし実は、「意識的に入れたことはありません」という表現は正確ではありません。正しくは、「意識的に除去しています」という表現だと思います。その結果で、つまり除去したことで、絵画に哲学的な何かを感じていらっしゃるのかもしれません。
どういうことでしょうか?
哲学は汎用的な考え方です。我々が摂取する情報の中には、哲学的要素が混入しています。例えば、日本は戦前から重商主義が幅を利かせていますが、ここにはアメリカ的な功利主義、プラグマティズムが見え隠れします。プラグマティズムそのものは、私は勉強していませんし、あまり耳にしませんから、日本で浸透している考え方として探すのは難しいですが、同主義は、ドイツやフランスの実存主義と近接していて、それを取り入れております。
では実存主義から探してみましょう。ハイデガーの『存在と時間』が1933年の出版であります。その概念がドイツから直接、あるいはアメリカのプラグマティズム経由で日本に根付いていると考えることは自然だと思います。
むしろ、ハイデガーの考え方が、資本主義的な律動に根ざしていて、それを定式化しようと試みているかのようにも見えます。「企投」などという彼の言葉は、誤解を覚悟で言えばですが、経済原理を個人に適用する際の言葉、「自己投資」という言葉・行為に置き換えることが出来るかもしれません。逆照射的に見れば、ということです。
そういった思想の摂取を、われわれは日々の生活や仕事の中で行っているのではないか、あるいは、われわれの日々の生活や仕事や考え方を、哲学は逆照射して、定義しているのではないか、と、漠然と感じています。「われわれは哲学を常に摂取して、含んでいる。」のだと。
だからこそ、私は、美術作品から哲学を「除去しています」が正しいと思うのです。では、哲学を除去してなお、哲学的である理由はなんでしょうか?
ここでまた話が飛びます。
カント美学の要諦は何か?と質問されたら、私は最初に「無関心性」と回答するでしょう。No interest, Ohne Interesseです。これも誤解を恐れずに言えば、例えば絵を鑑賞する際に、その絵の値段が何か、将来いくらになるか等を考えていたら、美感は得られない、ということなのです。そういったことを度外視して、絵だけを見ない限り、感じることは「欲動」であって「美感」ではないということです。なお、interest,Interesseは投資的関心という意味があります。
カント美学がこのような要諦ですから、私は、絵画に哲学が混入してしまったら、まずいと思います。哲学は、関心性が生じるものです。つまり、哲学が混入すると美感が損なわれるということです。
このことは、アドルノがいみじくも「カント美学は、彼が第一義と考える彼の道徳哲学と接合することによって、歪んでしまっている(要旨)」(アドルノ『美の理論』)と指摘しています。炯眼です。道徳理論と美感的判断力が「結合子」によって結びついている点は、『判断力批判』の第一部の後半にて行われます。
ですから私は哲学を「除去」します。出来る限り徹底的に関心性を遠のけます。その結果、美感だけが残るように努めるのです。なぜかと言えば、単に私が画家で、絵画に美を求めているからだと思います。
そして、逆に、哲学を学んでいない人は、この「除去」をしていないのです。
後天的な自分自身の考え方はいいのです。意識して勉強していますから。そうではなくて、先ほど述べたような、知らず知らずのうちに自分自身の血肉になっているような思想は、ふつうは意識できないので、除去もできません。これは、残念ながら専門的な勉強をしない限り、できないと思います。すると、哲学的な関心性がそこに混入することになります。
それから逃れることは、基本的にできません。誰しも時代と共に生きています。私もそうです。私も、関心性を除去するために哲学を学ぶ、というそこまで本末転倒なことはしていません。
美感的な純粋性にまで到達している人はごく稀です。何かしら、時代の空気から感じ取ったような思想が読み取れることがほとんどです。
その思想そのものが流行思想だったり、あるいは興行的・商業的な動機から流布された、「かっこうのいい考え方」だったりする場合もあるでしょう。それが悪いという意味ではなく、そういうアプローチがあってもいいし、私のような混入物に神経質なアプローチがあってもいいと思うのです。私の作品は、硬質であるとか、純粋であるとかいう形容を頂くことがありますが、その部分だけに関しては上記のような説明で、その理由が説明できるような気がします。
そして、私自身は関心を呼ぶ思想に依拠しないように、なるべくしているのですから、自然な流れとして、美術史や美術のトレンド、あるいは一般的な流行から独立することになります。現代美術のカテゴリーがあるとすれば、私の作品は明らかに欄外です。
欄外であっても、美感を呼び起こすことが出来ている、無名の画家なのに、悪くない、鑑賞者はそう感じて、私に哲学があると言うのだと思います。哲学が無いことで、哲学があると感じるのは、なんとも不思議です。しかし、哲学も美感も、実はそういった、強い独立性を求めているものなのではないでしょうか。