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■制作の経緯

 いつも、絵画に言葉を添えることに躊躇します。絵画の解釈の可能性は、鑑賞者に委ねられていて、作家によっていたずらに狭めてはいけないと思うからです。それに、言葉で表現してしまうと、絵画そのものの意義が縮んでしまうかもしれません。画家は絵画で表現し、著述家は言葉で表現するものです。ですから、この作品に言葉を添えることにも抵抗がありました。ただ、自分の考え方に拘り、折角の絵画作品が「分かりにくい」という理由で人目につかないのならば、それも不本意です。そこで、私という制作者自身も或る一人の解釈者に過ぎない、こういう風に考え方を割り切って、末筆ながら「ふうせん」の制作の経緯についてご説明差し上げようと思います。冗長ですがご容赦下さい。

ふうせんの実
赤いふうせんの写真 誰しも子供の頃、たくさんのふうせんにつかまって空を飛ぶ幻想を抱いたのではないでしょうか。このイメージは、それほど目新しいものでも、珍しいものではありません。一方で、私がそれを絵本という形で登場させるまでには、いろいろな経緯がありました。

 まず最初に、「ふうせん」には前編があります。「メッセージ」という名称で描いた一連のイラストで、赤いふうせんの写真(右記)が発端となり、1997年に最初に絵を発表しました。そのあらすじは次の通りです。

 「赤いふうせんを持っていた子供がうっかり手を離して、ふうせんは空へ飛んでいってしまう。それにたまたま気づいた人が、両手を一生懸命バタつかせる。彼はふわりと宙を舞い、空をめぐってふうせんを追いかける。そして一旦はふうせんをつかまえる。けれども、強く握りすぎてしまい、憐れふうせんは破裂してしまう。彼は落胆して墜落する。破裂したふうせんの破片は地面いっぱいに散らばる。
  ある日、その地面から青い芽が出る。芽は次第に大きくなって、木に成長する。その木から、赤い実がなる。その実はだんだん膨らんで、フワフワ浮かぶふうせんの実になる。彼はかつての赤いふうせんが復活したと思い大喜びする。しかし彼が気付かないうちに、ふうせんが空に飛び立ってしまう。彼は再びふうせんを追いかけることを決意して、永遠にふうせんを追いかけ続ける。」

 以降の続きは思いつかず、もやもやしたまま制作を凍結していました。私は機が熟していないのだと思い、再び機運が盛り上がることを待っていました。そんな折、2009年に私に子供ができました。赤ん坊だったその娘を抱いて、家に飾ってあった私の絵を一緒に見ていると、娘が「メッセージ」に描いてあった赤いふうせんに喜んでいました。赤ん坊には赤色が目立つらしく、ジーっとその赤を眺めたり、指差して「ふぅ」と言ったりしていました。それならと、私は子供のために久しぶりに「メッセージ」の制作を再開したのです。ただし、この時点では話の続きは思いついていませんでした。  今から思えば予定調和的ですが「メッセージ」に「ふうせんの実」が登場したことが、後編のイメージへと展開する大きな要素でした。しかし、それだけではきっと駄目でした。しばらくして、前編・後編を結びつける大きな出来事が起こるのです。

楽しい絵
ふうせんの木 後編では、いろいろな人達や動物がふうせんにつかまって飛んでいきます。主人公も飛びます。みんな笑顔で、空の旅を楽しんでいるようです。このふうせんは、前編に出ていた「ふうせんの実」です。いっぱいのふうせんの木から、いっぱいのふうせんの実が生って、みんなそれにつかまって飛んでいっているのです。底抜けに明るい、そんな形容が当てはまるような絵ばかりです。
 しかしその姿は、実は2011年の東日本大震災における津波の被害と重なっています。津波が東北地方太平洋沿岸へと押し寄せた時に、「もしもいっぱいの「ふうせんの実」があったら、みんなそれにつかまって、空へ飛んでいって逃げられたかもしれない。」と、ふと思いました。特に、小さな子供の犠牲も多かったので、せめて子供だけでも助かってほしかった。当時の私の娘は1歳前後でしたから、震災で子供を亡くした親の気持ちが身につまされていたのですが、そのために抱いたこんな他愛もない幻想が「ふうせん」の中心イメージとなったのです。

犬とバイク この私の心の底の思いは、震災当時、日本中がショックで暗澹として沈み込んでいたことと共鳴しています。そしてむしろ、その反動でこうやって楽しい絵が紡ぎ出された気がします。悲しければ悲しいほど絵は明るくなって、1~2歳前後の子供が喜ぶもの、知っているもの、知るべきものなどを、「ふうせんで空を飛ぶ」という主導動機に結びつけて堰を切ったように次々と描きました。人物・乗り物・動物、そして小さな子供達がどんどん飛んで行きました。皆、ふうせんで空を飛びたいという幼いころの願望を、たくさんのふうせんの実によって満たしているのです。絵の上では津波にのまれたことは関係なく、悲壮感はありません。直接的な因果関係を示すことは何も表現されてはいないのです。しかしながら、前編・後編をつなげた大きな出来事とは、このイメージの元となった2011年の東日本大震災だったのです。  

最後のシーン
製作途中のラストシーン 制作の途中、ある人物のイメージが、ふと白布に出ました。それまで描いた、誰かが飛んでいる姿ではなくて、子供を抱いて立っている親の姿のようでした。その場ではどうするか思い付かなかったので、しばらく寝かして、他の絵が一段落した頃に描こうと思いました。そして、着手すると、不安定感や遠近感の出し方が面白い絵になりそうでした。どんなシーンにすべきかも決まっておらず、迷いながら描いていました。画面のインパクトを出すために、ふうせんを赤に統一して、微細かつ大胆に描き込んでいました。黙々とふうせんを描き込んでいて作業が深夜におよんだその時、私は声を出しました。

  「あっ!」
  「こりゃあ死んだ人達だ…。ぁー。」

最後のシーン_初版   そうです。そこに描いた沢山の赤いふうせんは大震災で犠牲になった人達の魂で、それを生き残った主人公と父親(当時1歳半だった娘と私の似姿)が見送るシーンだとこの絵の隠れた意味に気付きました。瞬間、さめざめ泣きました。子供が攫われないようにしっかり抱き留め、笑顔のない父親像は、ゲーテの詩でシューベルトの歌曲になっている「魔王」の一場面を想起させます。あの地震・津波により、何の落ち度もない多くの人命が呆気なく奪われた事実を目の当たりにし、続発した原発事故の影響が首都圏にまで広がって来て、余震は一向に止む気配がなく、次の巨大地震がいつ来てもおかしくないと学者が警鐘を鳴らす中で、自分や家族も死と隣り合わせであることに気づいた、その時の似姿です。これまで描いた様々なモチーフも、要するに主人公が見送っている犠牲者の魂の姿に読み替えることができました。そして、主人公は地上に降りている。つまり生き残った子供の象徴だったのです。そして、このシーンが最終的にフィナーレの絵となりました。

静かな慟哭
 私は、人々が津波から逃げ惑う姿や、高台から津波を見て絶叫する姿、無力感に襲われて茫然自失となっている姿、励まし合い、助け合う姿を、映像や文章で何度も見聞きしました。

バス「すごいぞー!」 「早く上さあがれ」 「堤防越えた」 「津波きてます!」 「家が流れてる」 「尋常じゃねえ」 「全滅だぞ」 「はやく!はやく!」 「にげて!」 「えー?ゆめじゃないの?!」 「こんなんなっちゃうの?」 「信じられない」 「ここで大丈夫か!?」 「今2階ですが、ここもどうなるかわかりません!」 「あーだめだ」 「止めてくれー」 「なにが防波堤だ。何が防潮堤だ。」 「おじいちゃんが病院に!」 「ともだち心配だ。」 「がんばれー!手離すなー!」 「あっあー!!」 「地獄だ」 「命があっただけでも」 「明治の津波以上だ」 「なんもかもお仕舞いだ」

 悲鳴と共に上記のような言葉を聴きました。他にも、映像には映っていないのですが、最初ははしゃいで笑っていた若者が、あまりの度の超えた事態に、次第に声が出なくなってしまう様子もありました。絶句し、声が出せなかった人も沢山いたのだと思います。モチーフが空を飛んでいる絵は、実はそういった映像や文章を見返しながら描きました。こんなにも明るい絵が、実は苦しみ、悲しみから産まれていたのです。

距離
 震災当日、大津波警報が発令されたことを知った時、私は三陸海岸の人たちは防災意識が高いから逃げてくれるだろう、大丈夫だ、と思いました。その時、私は東京に住んでいて、あまりに遠くて自分は何もできない、無力を感じていました。だから、彼らなら大丈夫だと自分に言い聞かせるしかありませんでした。しかし実際は、私の予想を超えていたどころか、誰も予想できなかったような巨大津波が太平洋岸に押し寄せていました。私が最初に映像で、逃げ遅れた 人を目にした時、先ほどの楽観視はあっさり崩れました。「いったい何万人死ぬんだ。」私は慄(おのの)きました。そして、その後の話ですが、助かった人たちも、たとえ近くにいたとしても、同胞が流されていくのをただ見送るしかない、無力感を覚えていたことを知りました。津波の力はわれわれの想像を遥かに超えて、あまりにも絶大でした。津波に呑まれた人が、どこかの知らない人でも、同じ日本人です。私も、何とか助けてあげたかった。でも無理でした。そして、救うことは誰にも出来なかった。目の前であの津波を見て生き残った被災者の方のショックは計り知れません。一方で、時間が経つにつれて語られた体験談を読むうちに、私が感じた無力感は、生き残った被災者の人たちとも少なくとも一部は共有していたのだと分かりました。


 主人公がふうせんで飛んで行った後にどうするか悩みました。一連の絵には、鎮魂の意味もありますが、私も含めて、生き残った人たちへ気持ちを向けなければなりません。最初、いっぱいのふうせんで虹をつくって、上った人達が降りてくる様なことにしようと思いました。しかしその辺りは適当でいいと思いました。つまり一旦上がったから、降りてこなければならないといった物理法則に依存する必要はない、裏の筋書きに沿えばいいのだと。つまり、津波にのまれた主人公、彼もふうせんにつかまって一旦は天上へ上っていくのですが、奇跡的に助かるという裏の筋書きです。亡くなった方達のたましい=ふうせんによって主人公が助かるというよりは、助かったのは偶然に過ぎないとしても、九死に一生を得たことで、その後に強く生きようとする意志は、やはり九死があってこそ、犠牲者の人たちがいてこそ生まれる、そういうことです。
 主人公の夢によって物語がつながれるので、途中までいっしょにふうせんで飛んでいたゾウに運び役をお願いしました。主人公が気を失っている間はずっとふうせんの夢を見ていたのです。そして空にできたふうせんの草原を、ゾウの背中に乗って散歩します。次第に日が暮れだして、暖かかった太陽の光も翳ってくるのですが、それでも主人公はなぜか寒さを感じずに、暖かさを感じ続けていることを不思議に思って、目を覚まします。するとその暖かさは、助にきた父親の抱擁の温かさだったのです。そして主人公は、朧げな夢うつつの中で、無数の、しかし一人一人の死者のたましいが、天上へ向かう美しい姿を見送るのです。ラストシーン
おわり
図版解説
ラストシーンふうせんの最後のシーン(第二版)。もしこの人物が我々を含む遺族の似姿だとすれば、見送られる魂が戦慄するほどに美しいのは、死者から「お前たちは生き残った。」と宣告を受け、かつ遺族が「我々は生き残った。」と宣言するシーンであるからではないかと、後に解釈します。



赤いふうせんの写真 ビルのエントランスホールの天井に打ち捨てられていた赤いふうせん。1995年永瀬撮影。









ふうせんの木 
前半で飛び散ったふうせんの破片からふうせんの木が育って、ふうせん実が生り、後半の主人公の「ちっくん」は飛び立つ。










製作途中のラストシーン 
最後のシーンは偶然思いついた図柄から導かれた。ストーリーはそこから遡って組み立てられていった。図は制作途中の第二版。









最後のシーン_初版 最後のシーン第一版。















犬とバイク 被災地から悲報が届くたびに、絵の数は増えていった。偶然映った津波から逃げ惑う犬の映像も目に焼きついた。






永瀬 宗彦


プロフィール

永瀬宗彦 - Nagase Munehiko

Author:永瀬宗彦 - Nagase Munehiko

画家・永瀬宗彦の雑記帳です。

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